人間は、一人では生きてゆけない。おそらく殆どの人がそうでしょう。でも、常にどこか(例えば会社)に所属しなければ生きてゆけないのでしょうか。

人間は集団化することで強くなったと言われます。真偽は判りませんが、わたしたち・ホモサピエンスは、ネアンデルタール人の集団化が100人程度であったのに対して150人以上の集団化をしていたことで地球上の覇権を得たという説があります。

その集団が大きくなればなるほど他の集団を凌駕することができるため、集団は国という大きさまで達し、その集団どおしが競い争ってきた過程が世界史と言えるでしょう。集団は巨大化するほど支配のピラミッド構造は多層になり、社会は各階層で人となりも知らない誰かに支配管理されるようになりました。そこには必要以上の搾取が伴うことにもなりました。

国を動かす者たちの思惑で教育が行われ、歴史が書き換えられ、信ずるべき価値観が刷り込まれ、マジョリティである従う人々は知らず知らずのうちに権力者から与えられたものが自分で選んだ生き方と思い込んでしまうようになりました。資本主義の日本では、受験を勝ち抜き偏差値の高い学校へ入り、大きな会社に入り、出世するための所作を知り、幸せの尺度も誰かに用意されたものを漫然と受け入れるようになります。

特にこの国では、周囲と一緒の行動をとることが良しとされ、異質な者は排除されたり時にいじめの対象にされることもあります。それでも戦後のある時期までは安寧に日々を暮らすために有効な方法ではあったのですが、個性を認めない社会ゆえに個を主張しない習慣はむしろ危機を修正できずに山積みに拡大する弊害が顕著になっていると思えます。

人々が日和見し問題を直視しないうちに、この国は経済も政治も人々の心も瞬く間にボロボロに劣化してしまいました。貧困と刹那主義が国を覆いつつあります。民心が離れる中、権力はますます人々を管理・監視する方向へと邁進しています。

今、日本の既存の集団(群れ)に居て周囲に合わせることで思考停止状態になることは、ずるずると家畜状態から抜け出ることができなくなるという意味で、以前と比べて格段にリスクが高くなっているとぼくは考えます。

人々が氣がつかないように、食物には時間をかけて身体を壊す毒が盛られ、飲み水には脳のシナプスを萎縮させ思考能力を減退させるフッ素が混入されようとしています。放射性物質を日本中にばら撒こうとすることも「ぶらぶら病」と称される考えられない脳の状態へ陥らせる狙いが秘められているでしょう。

グローバリズムという考え方が世界中に浸透した今、その巨大なシステムは個人の自由を奪いとり人々の一切合切の情報をストックしようとしています。わたしたちは当てがわれたナンバーと身体に埋め込まれる狙いをもったチップによって完全管理されようとしています。これでは、柵に囲われ耳にタグを付けられた家畜のようです。

群れの中にいれば、柵の外にいる狼に襲われないので安心なのでしょうか。柵の中にいることで、飼い主に暖かであるための毛を刈り取られ、何れ肉として屠殺されるのです。柵の外に出れば、生き残って自由を謳歌する可能性はあるのです。

個が大事にされない集団に帰属していて、果たして今後の安寧や幸せは掴めるのでしょうか。わたしたちはそれを続けるのか?今はその大きな根本的な選択の狭間にいるように思えます。自分自身を大事にするために、属している集団から勇気を持って抜け出し新たな価値観に基づいた暮らしを始める、そうした選択肢をリアルに模索する人たちが増えていると感じます。

ぼく自身は、50代になったころから早期退職の可能性を探りましたが結局60歳定年まで会社勤めすることになりました。しかし、65歳まで雇ってくれる再雇用制度のお世話にはならないと決めていました。会社から求められるミッションと、一市民としての価値観の間に乖離が大きくなるばかりだったので、60歳でリセットしなければ変わろうとする意思と機会を失うだろうと判断していたのです。

余暇時間に田舎暮らしのための調べと準備を進めていたので、ぼくの場合そのリセットは順調に推移しました。定年後しばらくして感じたのは「誰からも指示を受けなくていい」という心地よさです。時にお伺いをたてるとしたら、妻と娘くらいのものです。殆どのことを自分で決め、結果もシンプルに自分の責任となる。これは思っていたよりも爽快でした。今まで出来なかった学びの場に参加し、そこから更に興味が拡がる、そしてインプットを実践するうちに素晴らしさや難しさも分かる、氣がつくと自ら出来ることが増え生きてゆく底力がつき心が若くなった自分がいる、そんな嬉しい循環が始まったのです。

学びに出かけることは、新たな人とのご縁が拡がることにもなりました。自立した個人であろうとする方々と場を共にすることは、共有できる価値観も多くの点で重なりお互いの知見をシェアすることで自分の可能性を広げ相手の可能性も広げることになります。人生の師、生き方の生き字引のような人との出会いもありました。新しい扉を開けば、そこには新たな仲間がいるのです。少し勇氣をもって一歩を踏み出せばよいのです。

ぼくは今、そうした経験の中で自分が得た知識やそのプロセスを、必要とされる方々に伝えたい氣もちで一杯なのです。それは、他者も幸せになることがこの世を良きものとし自分自身も幸せになれることだと氣がついたからなのです。

人は本来、誰もが自由に生き方を選ぶことができ、個性ある表現を楽しむことで、宇宙の可能性を拡げるために存在するものなのです。そうした人生を歩み始めた人は、まさに眩い光を放っています。その人の放つ光は、周囲の人々の光を増すことになります。そうした連鎖で、この世は輝く素晴らしいものとなってゆくのです。ぼくはこのように理解しています。