母が亡くなって、小さなお葬式を行いました。
老衰で静かに息を引きとった87年の人生でした。晩年は認知症がすすんだので施設のお世話になっていました。運良く、北杜市にあるとても評判の良い特養に入所でき、素晴らしいケアマネージャーと暖かいスタッフの方々に囲まれて過ごしていました。
会社勤め現役のころのぼくは、参列者100名を下らない葬儀ばかりを経験していたのですが、退職して4年がたち、弟も同じく退職している身なので、家族だけの小さな葬儀にすることが自然な選択でした。
ケアマネージャーさんに紹介された葬儀場は、ご夫婦だけで営んでいるほんとうに小さなところでした。世の中の今あるニーズに応えた葬儀場を数年前に始められたということで、主に動いている奥さんの対応は素晴らしいものでした。
この葬儀場が扱っているブランドが、「小さなお葬式」というサービスでした。葬儀社にありがちな不明瞭な料金とあいまいな説明を排したビジネススタイルは、とても納得できるものでこれから更に伸びると思いました。
その家族のようす、経済状況の推察、お墓の有る無し、宗派、死生観、などをくみ取りながら臨機応変にアドバイスしてくださり、葬儀社から受けがちなプレッシャーも全くなくオリジナルな式を構成することができました。遺影の写真は、ぼくがリサイズとトリミングを行い額を探して作りました。祭壇を飾る花も、センスのよい花屋さんにお願いして用意させてもらいました。そんなことにも笑顔で応対してくれて、まるで友達と葬儀を組みたてているような感じがありました。
葬式は、弟家族とぼくの家族の7名のみ、無宗教、戒名もなしで行いました。ティンシャと音叉で場を整え、弟とぼくが母との想い出を語り、甥の選曲が流れるなかで献花を行いました。手づくり感のある良い葬儀になったと思います。
ぼくは既存の宗教は信仰していませんが、神なるものはあると思っています。それは、宇宙創造の神であり、万物に宿る神であり、自分のなかの神のことです。そうした人生観に妻も弟も賛同してくれるので、こうした葬式を行うことができました。
人の本体である魂が、身体という乗り物を使って、物質界という制限のある世界で、経験し学んでいる、それが人の一生というものだと、ぼくは考えています。身体があることで、食欲があり、病氣になり、成長と老いがあり、美醜があり、感情が揺さぶられ、その全てが学びの場となっている、そのような理解をしています。
そして、魂は今生にどのような学びをするのかを決めて、親と赤ちゃんを選んで宿ってくる、そのようにも考えています。子は親を選べないと言いますが、それはむしろ逆であって「子は親を選んでやってくる」のです。たとえ苦労が待っていたとしても、それは魂がその中で学ぼうと計画したことだと思います。
そうした考えから、ぼくは母の死を悲しいことだとは思っていません。人生で出会った様々な経験からの学びを終えて「今生を卒業」するのだと理解しています。その観点から、母にかける言葉は「ご苦労さま。安心して、魂の故郷に帰ってください。」となるのです。
「死ぬ」ことで、今回の身体をもった学びは終わり「卒業」して魂の故郷に帰る、そうして輪廻転生で何度も学びを繰り返してきたはずです。わたしたちの生きて感知できるレベルはこのあたりまでだと思いますが、意識レベルが上層にあがってゆくと、やがては統合されてワンネス・一つの意識になるのでしょう。
「輪廻転生はあるが、ほんとうは無い」と、グリア博士は著書に記していて、それは正しいだろうと読んだとき感じとれたのです。
ぼくのティーチャーであるマザー・アマラにこのことを尋ねたとき、「どうしたのですか。今日はすごいことを聞いてくるのですね。」とあって、応えは「そうですよ」でした。
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